昭和42年3月号より
2010年 02月 10日
そう!、かつて1度この直助でも紹介したことがある早稲田ア式が3冠を取った年でもある。
以前紹介したのは松永章や沼野洋一郎率いる藤枝東が三冠王になった時の記事なんだが、この号は藤枝東と早稲田ア式で埋め尽くされている。
本日より大きく取り上げたい。
サッカーマガジンさんもお喜びであろうという勝手な解釈のもとにだ!
天皇杯決勝での、この場面は日本のサッカーのゴール神でもある釜本さん(山城、4年)からのFKを野田さん(明星、1年)がヘッディングシュートがゴールしたところ
左から細谷さん(神戸、3年)、丹羽さん(東洋)、桑原兄さん(東洋)、中村きんちゃん(修道、1年)、船本さん(東洋GK)、そして野田さん。
ア式特集でと思ったらオラ的にはもっとおもしろいものがあったので先ず今朝はこちらをご紹介したい。
表紙の裏面がこちらだ。
そして中記事にもサッカーシューズの宣伝がある。
そして極め付きはこれだぁ!!
当時のサッカー少年には3本線はあこがれだった!
三木のり平の「なにはなくても江戸紫」ではないけれど「なにはなくとも3本線!」
日本のメーカーの3本線はアディダスの許可を得ていたのだろうか。
オラ達はアディダスなんか夢のまた夢でヤスダの3本線「TOKYOネオライト」でもあこがれだった。同じ3本線だし!
ただウシトラは履かなかったけんどよ。
とにかくのアディダスのデザインは今見ても何の違和感がない、素晴らしいものだと思う。
流麗なフォルム、細部まで目が行き届いたデティールの美しさ!
43年前のデザインとは到底思えない。
神々しさすら漂ってくる。
サッカー少年には自然と涙が出てくる垂涎ものだった。
ウシトラと比べてほしい。
こんな表現はよくないかもしれないが、ウシトラ通行人、アディダス吉永小百合!
まさに芸術そのものである。
43年前で15000円なんだから!
ものすごい話である。
それから2年後にオラは東京に出て来て浪人生活をするのだが、大塚の2食付きの3畳の下宿代が9500円だから、アディダスのスパイクのすごさがわかる。
田舎のサッカー高校生でも三井物産は知らなくても、兼松は全員が知っていた。
よくよく考えれば、家にはサッカースパイクどころか、外国製品なんかはひとつもないわけだし、海外旅行なんかいくのは磐田市で年に1人か2人だったろう。
ジョニ赤ですら大人達のあこがれだった。
ジョニ黒なんぞは神棚か仏壇に飾る時代だった。
なにせ、神々しくてこの15000円のスパイクを履いたのがこの号が発刊されてから5年後なんだから、まさに恋人以上恋人未満みたいな特別な存在なんであった。
スパイクに釣り合いが取れないと、いいスパイクは履かないというのが当時の高校生なんかの常識だったと思う。
3本線でへただったらどんなあざけりを受けるかわからんし、他校の選手に絶対かつあげされるのはまちがいない!
試合終わったあとに校舎の裏に連れて行かれるし
「オラが履いてやるずら!スパイクも喜ぶだぁ!」
とにかくはじめて15000円のスパイクを履いたとき、今まで履いていたスパイクははっきしいってズック靴だった。
そのぐらいの違いがあったとおもう。
鳥肌が立ったのも覚えているし!
話はちょっと横道にそれるが、この大塚の白飯食い放題、3畳の下宿屋のお話もちょっと思い出したので後日、ご紹介もしよう。
笑える!!
藤塚GRADUATION CUPをちょっとだけ見た
2010年 02月 09日
一旦家に戻ったあと、おなじ保土ヶ谷区の藤塚キッカーズさんから6年生がお別れサッカー試合に招かれているのも思い出し、藤塚小学校に駆けつけた。
ちょうどうちのチームが平戸FCさんと試合をしている最中だった。
時間的にはもうすでに後半に入っており、残り10分ぐらいなんであろうか。
ゲームを見出してから平戸に2点、そしてこちらが1点追加で結局3ー3で終了した。
最近、6年生のゲームを観ていなかった。
ただ、オラが平日の練習で指導していたので子供たちの顔は見ていたが練習に来る子が少なくなっていたのでちょっと心配だったからだ。
もちろん、これはオラの練習方法に魅力がないのかもしれないが!
夏の頃の方が溌剌としていたのに、まず元気がない。
成長過程に入っているのだろうが、みんなのカラダが重い。
切れが全くない子が多かった。
そのためかどうかわからないがきちんとした守備がぜんぜん出来なくて、相手にフリーでやらせていた。
間合いの詰めが甘くノープレッシャーだったし、守り方がよくわかっていない子が多い。
そして、これは一番感じたことなんだが、サイドキックがまともに蹴れないので、パスができないということだ。
最近のサッカーではサイドキックがほとんど全てと云っていいぐらいなのに!
正確にサイドキックが出来ないということは致命的だと思う。
味方の選手に取りやすいやさしいキックをしている子は皆無だと言っていいだろう。
自分自身の反省もふまえて今後の練習を考える必要があると思った。
強風でゴールポストも倒れ、あわや大惨事!
2010年 02月 08日
東京都内からも、まっさおな空の元、富士山もほんときれいだったが利根川河川敷は強風が吹いていた。
それも半端じゃあない風。
体感温度は0度ぐらいじゃあなかろうか
立っているのも大変なもので、向かい風ではまっすぐボールは飛ばないし、追い風でシュートはずれでもしたら、200mもボールは転がっていく始末。
いくら走ってもボールに追いつかない。
グランドは天然芝だったのがせめてもの救いだった。
究極は試合中、ゴールポストが追い風で前に倒れたことだ。
ハッキし云ってこんなの見たことない。
たまたま、相手GKが前に出ていたからよかったものの、へたすれば大惨事になるところだった。
試合中は控え選手がゴール後ろで重しになっていた。
あり得ないダニ!
そんなこんなでゲームに全くならず、お互い不完全燃焼で30本×3本を2−2で終わりました。
よくやってくれたとしか、いいようがなかった。
ご苦労様でした。
曽谷がやってくれたようで!
2010年 02月 07日
帝京第三高校は準決勝で全国高校サッカー選手権優勝の山梨学院大学付属高校を延長PKで破っている。
そして昨日の決勝戦。
うちのJr.ユースのOBで2年生の曽谷がレギュラーになって試合出場しているということもわかった。
昨年の夏、Jr.ユースの野辺山での夏合宿で帝京第三高校とのゲームではまだCチームにいた。
監督さんからは、「性格もいいし、いいもの持ってますからそのうち出てきますよ」よいお言葉もかけていただいた。
正月にも会ったが、礼儀正しく後輩のよい見本になる印象だった。
ケガがちで,心配もしていたが結果も出してくれてこんなにうれしいことはない。
試合に出ることが全てではないが、今回は素直に喜びたい。
同じく、帝京第三高校サッカー部に所属している、うちのOBの1年生にもいい刺激を与えてくれたことだろうし、他の高校で頑張っている同輩にもいい刺激を与えてくれたことになるだろう。
昨夜は、Jr.ユースのスタッフでの打ち合わせ会議やらその後の飲み会もあったりで応援にはいかれなかったが、結果が分かり、曽谷からも電話ももらったりで、スタッフのみんなのいい励みにもなって、またもや酒のペースが上がったのはいうまでもないことだっただに!
みんなニコニコの、記憶に残る夜だった!!
ア式の納会に行ってきたが
2010年 02月 06日
同期では常連の工藤がいなくて、高島ロバだけだった。
1級下もいないし、2級下は川本と岩谷、3級下はゼロであった。
1級上は窪田さんだけだし、2級上は貞男モノゴリさんだけだった。
3級上は明星コンビの赤須関西のドンと野田さん、福島さんのおさんかた。
毎年、こんなものではあるがちょいとさびしいもんだった。
轡田先輩とはもちろんお会いした。
そして会終了後は学生を連れて飲みに行くのが恒例なんだが、今年は男子部はそんなこともなく学生がチョイとかわいそうだったと思う。
昨年もなかったんで工藤と大榎の3人で15人ほどの学生を呼んで、けっこう盛り上がったと思う。
今年はその2人も来ていないし、オラァが女子部をカメラに収めている間に、みんな帰ってしまい、そりゃあもう出遅れたというか、ひとり寒空を帰るのは切ないものがあった。
男子部の成績がいまいちだったんで、盛り上がりに欠けたせいもあるが、なんとなく学生不在と言うか、学生あってのOB組織だと思うので、成績云々よりも、「ごくろうさん!ハラハラやきもきさせてくれたけんどよ!」でいいんだから、正式行事としての4年生との二次会ってとっても大事ではないかとオラは思うんだが。
学生気質は変わったと言っても、基本的部分は今も昔も変わりはしないし、ア式に対する想いも同じだと思うしよ!
4年生にとっての最後の行事である納会、そして二次会は新たな人生の旅立ちの第1歩でもあると思うし、ここをオラ達がきちっと面倒みてやらんでなんのOBか!
えらそうに先輩づらが出来なくなるし、こういったお決まりがなくなることが、OBと現役の一体感がなくなることだと思うんだが。
OB同士で二次会で旧交を暖めるのはとってもいいことだとオラも思う。
でもそのなかに学生がいることがあるべき納会後のア式本来の姿だとオラは思う。
だって、、オラ達が4年生のとき、村形大先輩に生まれて初めて銀座に連れて行ってもらった感激というか、感動は今でも忘れない。
「ええとこだなぁ!これが日本かぁ」
もはや銀座でなくてもいい、高田馬場でもいいではないか!
来年は行事としての二次会をぜひとも復活させてほしい。
それにしても女子部はみんな元気だった!!