カテゴリ:昔の仲間シリーズ( 57 )

武男君がギラヴァンツ北九州の監督に

vファーレン長崎のレジェンドでもあり、現コーチの原田武男君がJ3のギラヴァンツ北九州の監督に就任したとの記事が今日出ていた。

長崎の監督にいつかはなるのは既定路線だと思っていたが、とりあえずギラヴァンツの監督になった。
そんな事前情報はちょっぴり入っていたが、正式に発表された。

ギラヴァンツは今シーズンJ3に降格したのではあるが、来シーズンは新スタジアムのお披露目がある。
大変な時に監督ということでプレッシャーもあるかもしれないが、彼なら間違いなくやれると確信している。
大いに期待しています。

2014年1月にマリノスの波戸選手の引退試合の前の日に、武男君とフリューゲルスのファンで、馴染みの李園で食事した。
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左から西山さん(GSFCーフリューゲルス大好き)、おら、武男君、外池君(マリノス側で試合に出る)、中藤さん(フリューゲルス命ー現在イギリスのヨークに留学中)、李園のマスター。
李園には武男君がフリューゲルスの時よく通った。
横浜で試合もあるし、再会が近いのも楽しみである。
by gsfc_aoshima | 2016-12-12 22:01 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)

学生時代の写真その3

ここまできたら、恥も外聞もないし、全国展開だ!
1972年、4年生集合写真。
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あまりの個性派集団なのでGKの淀川(のちにジェフの社長)とマネージャーの高島を除いて、終身雇用の時代なのに、6名は入った会社はもちろん中途退社している。

いい成績を上げたので結果的にはチームワークは良かったと言えるのだが、みんな結構勝手だった
目指すところだけは一緒なんだが、意見まとまらないし、監督が偉かったんだと思う。
監督の発想もおかしくて笑っちゃうような練習してたが、なにせ監督がベルリンオリンピックの選手で、スウェーデンに勝利したメンバーだし、早稲田の教授だったのでみんな監督には逆らわなかった。
ちょうど、今のオラの年齢ぐらいだった。

選手も少ないし、4年はわずか8名、3年生に至っては4名だ。
当然、1、2年生でなんとかしのいでいたということなんだと思う。
花形プレーヤーは下級生だし、4年生はカラダ張るしかないのである。
ひたすら走るしかないのである。
ゴールポストを敵とみなして毎日ヘッドの競り合いをしていたのもいた。

つい昨日の練習のように鮮明に思い出す。

写真がやばい!
デジタル化しないとやばいくらい劣化してきた。
アルバムが古すぎて、ノリがついているのかに、写真がひっついたままもう取れない。
破れちゃう!
by gsfc_aoshima | 2016-01-07 09:36 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)

懐かしい顔

年末も押し迫った12月25日の日曜日、Jr.ユースを立ち上げた時の、かつてのメンバーのご父兄、コーチが集合してくれて、クラブハウスで忘年会を挙行した。

セッティングはオラがして、すべて整えた。
Jr.ユース発足の頃はオラの仕事が激変して、皆々様には大変ご迷惑をかけたのだが、8名の皆々様がお集まりくださった。

ほとんどオラと同年代で、ヒマこいてる人が多いので、これからもこの会は続けていこうということで、なごやかにばか騒ぎ。
この人たちがいなければ、Jr.ユースは出来なかったし、頭が上がらない人ばかり。
そして口は悪いがいいひとばかり。
ありがたいことである。酒がうまかった。
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by gsfc_aoshima | 2015-01-02 08:21 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)

しょうさいふぐ1匹

40年来の友人でもあり、バブル時代に5年間お勤めした会社の社長さんでもあった、大恩人の内藤さんと海釣りに出かけた。なにせ25年ぶりなんである。
釣りの道具は実はなんでもある。釣りキチだったのだ。
25年前に使っていた竿やらリール。そして25年前の仕掛けを一応もっていったが全部、内藤さんが用意してくれる。
いかにサッカー一筋だったということだな!

自宅から葉山のボート屋さんまで35分だった。
内藤さんが葉山の長者ヶ崎に住んでいるので、ボート釣りを誘われたのだ。
大森ボートさんが引き舟でポイントに連れて行ってくれる。
ホームページを見ていたら、けっこう真鯛が釣れていたので、うれしくなった。

7時出船で長者ケ崎から沖合2キロほどのポイント。
内藤さんはカワハギ、オラは真鯛と青物狙い。

水深は27m。
二人ともさい先よく、内藤さん、カワハギ、おらはしょうさいふぐを釣り上げた。

ところがその後、潮が全く動かず、コマセが流れなく下に落ちてしまう。
あさりをえさの内藤さんはその後カワハギを3匹。
オラはオキアミの餌もとられない。

ていうことで12時で早上がりにした。
ボートからは富士山がもやに霞むも見える。
ニッポンていいなぁ!
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また雪辱戦をしないといけなくなった。
家に帰ってきてから、なんだか胸焼けがひどくて夜まで寝込んでしまった。ジャンジャン!!
by gsfc_aoshima | 2014-10-30 06:51 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)

来クラブハウス

秋田は横手FCの福田誠さん(ア式後輩4年の時の1年)がクラブハウスに来てくれた。
なんでもブラウブリッツ秋田のユースの試合を観に、マリノスタウンに来たとのこと。

おなじみ李園の蒸し鶏を食べたあと、クラブハウスにご案内。
旧交を深めた。
ジュニアユースの教え子が、モンティディオ山形の入団が決まったとのこと。
うらやましいかぎりである。
その子は1度もトレセンにも入っていなかったらしい。

なんだ勇気が出て来る話である。
サッカー協会の指針通りやったって、世界に通じる大会で負け続ける。
上手いだけでは、世界で勝てないことだけははっきりしている。
じゃあどうするかだな。

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by gsfc_aoshima | 2014-10-26 06:16 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)

森さんの命日

2011年7月17日異様に暑かった。
この日、オラは日の出村の亜細亜大学のグランドにいた。
チームの練習試合だった。
初めて訪れた。遠かったし、暑かった。以来一度も行っていない。

試合が始まる寸前に携帯が鳴った。
元日本代表監督、ア式先輩、現チーム顧問、敬愛する森孝慈さんがなくなったという連絡が入った。
その時から、初七日が終わるまでの慌ただしかったこと。

もう3年も過ぎた。
あっという間のような感じがする。
日本のサッカーはどうなんだろう。
停滞しているよな。
森さんが生きていればなと思う。
大護送船団のような日本のサッカー界。

監督クビになって、もうあの人はないだろうと思っていてもすぐどこかのチームが拾う。
もっと世の中的にはスゴい人もいるはずなんだがと思う。

日本代表もご存知の通りだったし、今度なりそうだというメキシコ人の監督も、なんだが品がないというか徳がないような感じがする。
森さんから発せられるオーラは尋常ではなかった。
ザッケローニ監督をヨコハマのホテルで見た時、「ただのおっさん。どこにでもいるイタリア人!」
帝国ホテルのロビーで森さんと待ち合わせた時のオーラは半端なかった。

こういうひとが代表の監督にふさわしいと思う。

森さんが今、生きていればどう思うだろうか、聞いてみたい。

早稲田ア式のホームページに依頼されて寄稿した森さんの思い出がまだ削除されていなかったので見ていない方にご紹介

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この写真はオラが高校生の頃のサッカーマガジンを、ア式に貸してあげたらのせてくれたもの。
by gsfc_aoshima | 2014-07-19 07:45 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)

喜多方の易学士

昨夜は分倍河原の松永章監督のお宅で痛飲。
喜多方の塚原さんは家業の魚屋をずっとやってるとおもったら、易学士になっていた。
オラのために持ち塩を入れる竹の入れ物を作ってきてくれた。
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塩が入っていた。
ありがたいことである。

「持ち塩風水」だということ。
苦手な人と出会ったときなどは、ポケットに入れたケースを握るだけでいいそうだ。
不安なときなどもぎょっと握りしめるとよいとのこと。

さっそく今日のジュニアの市大会にしのばせて行こう。
塩が守ってくれる。
ありがたいな!
易学士 塚原光勝様 ありがとうございました。
確か昔は「啓一」という名前だったんだが。
by gsfc_aoshima | 2014-05-03 06:44 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)

松永章さんに会う

昨夜は横浜で早稲田ア式先輩の松永章さんに会う。
入った居酒屋は、オラが小学校から中学までサッカーを教え、元キッズのコーチでもあった岡くんの働くお店。
塚田農場ということの社員である。
この日はお休みでいなかった。

松永さんはオラの2年先輩。
藤枝東で高校三冠王、元日本代表、天才FW。

オラの高校に藤枝東が磐田農高と試合をしたときの選手のオーラは半端なかった。
とりわけ、松永選手は別格で、国宝の仏像と我が家の観音様との違いほどである。
にやっと笑った時の金歯は一生忘れない。
金歯がスゴいなと思った。きっとボールが当たったんだなと思った。
高校生なのに大人と子どもがサッカーしているぐらいの差があり、こりゃあダメだと思った。

それから3年、浪人生活を経て早稲田に合格したので、サッカー部に入ろうと思った。
3月中旬、再上京して、東伏見のサッカー部合宿所を尋ねた。
ボロボロの建物、やばくない?

「こんにちわ」
しばし応答無し。
パジャマ姿の松永さんが出てきた。
寝ていたんだと思う。
「なんだい?」
「入部したいのですが!」
「マネージャーも主将もみんな韓国遠征でいない。オレは韓国であご骨折して先に帰ってきたが、このあとはオフになっちまうしよ!」
「どうしても入部したいのでお願いします」
そんな話があったあと
「出身はどこだぁ?」
「磐田南です。松永さんがうちの高校でサッカーしたの見てました。スゴかったです」
「そうかぁ、バンナンか。」
「うちの高校では早稲田のサッカー部ひとりもいないんでどうしても入りたいのです」

「じゃあよぁ、マネージャーにはオレが云っとくから布団と着替えを田舎から送れよ」

そんなこんなでさっそく布団を送って、3月下旬に合宿所に入った。
4年生のマネージャー本堂サンから
「おまえかぁ!布団送ってきたのは!何にも聞いていないが、入部希望?」

「えぇ?松永さんから布団送れといわれましたけど」
「聞いていないな。しょうがないな。行くところもないだろうから、今晩はここに泊まっていいが、いつでも辞めていいから」

ということで、辞めることもなく居座り続けて卒業まで迎えた。
人との出会いはこういうことから始まって、もう40年以上のおつきあいになる。

そこらへんの大学生なら、ぜんぜん負けないぜと白髪の紳士がのたまっていた。
松永章なら、さもありなん。
いい酒だった。
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by gsfc_aoshima | 2013-12-11 08:47 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)

予備校時代

昭和43年3月に田舎の高校を卒業したが,大学受験にもちろん失敗して浪人生活に入った。
先週の通り,東京は野方でのアパート生活、7月からは大塚の2食つきの下宿屋。
でもここの生活も1ヶ月しか持たなかった。
飯の心配はなかったが、風は通らないので死ぬほど暑い。
電気器具使えないのでコタツは使えないだろうし、布団かぶっての勉強になるし、冬は過ごせないと思い,ここも1ヶ月で退去した。何せ荷物がないので引っ越しは楽なんである。
まあ,1ヶ月居候したようなもんである。敷金、礼金といった類いもなかったし。もちろん紹介なんで不動産屋さんを通したわけでもない。

次は阿佐ヶ谷南の4畳半に移った。ここは大相撲の花籠部屋のすぐ近くのアパートで、まあ狭いながらもまあまあだった。若三杉がいた。暇があれば稽古を観に行った。

でもここも8月から11月までしかいなかった。
田舎に帰ったのだ。
布団引きっぱなしのごみため部屋になっていた。
キノコが生えそうな部屋になっていた。
予備校の勉強も今さらという気もしたし、成績も良かったので、大学ぐらい簡単に受かりそうな気がしていた。

すべてがちゃらんぽらんな浪人時代だった。
予備校は大隈講堂となりの早稲田ゼミナールというところだった。
ここを選んだ理由は他の予備校は選抜試験があったし、無試験。
これ以上予備校でも落ちたくなかった。
早稲田のすぐそばというのも良かった。

毎日、学生服で通った。
高校時代の学生服しかなかったので、これを着用。
詰め襟には「予備校のWの徽章」をつけて早稲田の学生っぽくしていた。
ほんとアホだよな!
靴は一張羅の革靴か下駄。

予備校は昼までだったので,昼食は大隈講堂横の学生食堂でランチを食べていた。
もちろん夜は野方食堂。
早稲田の学生っぽくだ!まあ偽学生だな!
当時,バンカラ学生やら,苦学生というのがいたと思う。

食堂で出会った大学生にはびっくらこいた!
大学4年生ぐらいだろうか。
あたまボサボサ、よれよれの学生服、下駄、牛乳瓶の底のような分厚い丸めがね。
腰には手ぬぐい。
松本零士の漫画の世界のような大学生がいた。
右手にライス、左手にもライスを盛った皿を持ってオラの前に座った。

ライス2皿、おかずは?
おかずをとりに行く様子もなく、合掌。
合掌が終わると,右のライスには醤油をかけた。
そう!左のライスにはまさか〜〜!!
ソースをなみなみかけた。
ぐいぐい食べていた。
ライス一皿30円だったと記憶している。

オラはただただ見るだけだった。
早稲田の学生恐るべきだと思った。
オラなんか修行が足らないと思った。
おもわず合掌しそうだったと記憶している。
本物の早稲田の徽章が欲しいと心底思った。
親に引っ越しばかりして申しわけないと思った。
荷物を直ぐたたんで、後先考えず田舎に帰った。

やっぱしオラは軟弱だった。
田舎に帰ってその後サッカーばかり半年していたのである。

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高校を卒業してのゴールデンウイークに高校時代のサッカー部の先輩と同級生と新宿駅西口で集合した時の写真。
オラは学生服。下駄二人は同級生で、瀬下と大杉。大杉はこのブログでヒィリピンパブ大好きなエロ司法書士として度々登場している。

左から,オラ、山崎(法政大1年)、大杉(立教大1年サッカー部)、瀬下(予備校生)、藤原2年先輩(サングラスでこわもてだが妙にやさしい)、木瀬1年先輩(歯科医の卵、見た目おっさんだがまだ19歳)、宮崎1年先輩(防衛大生)、三輪2年先輩(社会人)
by gsfc_aoshima | 2013-09-24 09:04 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)

野方から大塚へ

結局、浪人生活の野方には3ヶ月しか居住していなかった。
あまりに環状7号の車の音がうるさくて,ノイローゼになりそうだったし、親父が1度泊まりにきて、一睡もできなかったこともあり,出た方がいいといわれる。
家賃は4畳半(ガスコンロ、水道蛇口付きの小さな洗面)風呂なし、共同便所で7000円だったと記憶している。
トイレは2階から1階までストんと落ちる汲取だった。

6月いっぱいで高校時代の親友、青山賢三くんが住んでいた大塚の下宿屋が空いているというので引っ越した。どうやって引っ越したのかよく覚えていない。布団と机しかなかったし。

こちらは大塚と池袋の真ん中当たりでどちらからも歩いて行けた。
3帖2食付きご飯食い放題、共同便所(水洗)、風呂なしで9000円だった。
賢三の部屋は11000円。
オラの部屋はなんでこんなに破格的に安いかというと、太陽がまったく射さないモグラ部屋だったから。
窓は一応ついているがその先は暗い廊下。
となり部屋とのしきりはベニヤ1枚。部屋の高さは1820㎝。
部屋の天井はない!
建物全体の天井はあるが、後から空きスペースにベニヤで部屋を間仕切っただけなので、空中に電球が垂れ下がっている。
お隣さんのいびきも聞こえちゃう。
コンセントは1個だけだが蛍光スタンドしか使えない。容量がないのでヒューズが飛んじゃうのだ。
電気を使わせないように各部屋毎にヒューズがついていたのである。

もちろん風はまったく入って来ない。
夏でも無風。

飯の心配がないというだけの部屋だった。
家賃さえ払えば、あと、金がなくてもなんとかやっていけるというところだった。
あと、トイレが水洗だったのは二重丸。
4、50人が下宿していたと思うし、サラリーマンもいたような気がする。
笑い話に出てきそうな下宿屋だった。
2帖の部屋って想像つきますか?
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記憶を頼りに書いてみた。真ん中の5部屋のうちの一つだったと思う。5部屋かどうかも定かでないがよ。

田舎もんには全てが驚きだったと記憶している。
東京で喫茶店のマッチ箱を集めては喜んでいた。
磐田には喫茶店が1軒しかなかったので高校時代1度だけしか入ったことがない。
補導されるし!
ぼられるのではないかと,ビクビクドキドキだった。
喫茶店だに!

田舎もんには喫茶店でさえ、あこがれだった。
by gsfc_aoshima | 2013-09-21 08:31 | 昔の仲間シリーズ | Trackback | Comments(0)