昭和42年3月号より

サッカーマガジン通算第10号は昭和41年12月から42年1月1日に行なわれた天皇杯の模様が大きく掲載されている。
そう!、かつて1度この直助でも紹介したことがある早稲田ア式が3冠を取った年でもある。
以前紹介したのは松永章や沼野洋一郎率いる藤枝東が三冠王になった時の記事なんだが、この号は藤枝東と早稲田ア式で埋め尽くされている。
本日より大きく取り上げたい。
サッカーマガジンさんもお喜びであろうという勝手な解釈のもとにだ!

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天皇杯決勝での、この場面は日本のサッカーのゴール神でもある釜本さん(山城、4年)からのFKを野田さん(明星、1年)がヘッディングシュートがゴールしたところ
左から細谷さん(神戸、3年)、丹羽さん(東洋)、桑原兄さん(東洋)、中村きんちゃん(修道、1年)、船本さん(東洋GK)、そして野田さん。

ア式特集でと思ったらオラ的にはもっとおもしろいものがあったので先ず今朝はこちらをご紹介したい。
表紙の裏面がこちらだ。
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そして中記事にもサッカーシューズの宣伝がある。
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そして極め付きはこれだぁ!!
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当時のサッカー少年には3本線はあこがれだった!
三木のり平の「なにはなくても江戸紫」ではないけれど「なにはなくとも3本線!」
日本のメーカーの3本線はアディダスの許可を得ていたのだろうか。
オラ達はアディダスなんか夢のまた夢でヤスダの3本線「TOKYOネオライト」でもあこがれだった。同じ3本線だし!

ただウシトラは履かなかったけんどよ。

とにかくのアディダスのデザインは今見ても何の違和感がない、素晴らしいものだと思う。
流麗なフォルム、細部まで目が行き届いたデティールの美しさ!
43年前のデザインとは到底思えない。
神々しさすら漂ってくる。
サッカー少年には自然と涙が出てくる垂涎ものだった。

ウシトラと比べてほしい。
こんな表現はよくないかもしれないが、ウシトラ通行人、アディダス吉永小百合!
まさに芸術そのものである。

43年前で15000円なんだから!
ものすごい話である。
それから2年後にオラは東京に出て来て浪人生活をするのだが、大塚の2食付きの3畳の下宿代が9500円だから、アディダスのスパイクのすごさがわかる。
田舎のサッカー高校生でも三井物産は知らなくても、兼松は全員が知っていた。
よくよく考えれば、家にはサッカースパイクどころか、外国製品なんかはひとつもないわけだし、海外旅行なんかいくのは磐田市で年に1人か2人だったろう。
ジョニ赤ですら大人達のあこがれだった。
ジョニ黒なんぞは神棚か仏壇に飾る時代だった。

なにせ、神々しくてこの15000円のスパイクを履いたのがこの号が発刊されてから5年後なんだから、まさに恋人以上恋人未満みたいな特別な存在なんであった。
スパイクに釣り合いが取れないと、いいスパイクは履かないというのが当時の高校生なんかの常識だったと思う。
3本線でへただったらどんなあざけりを受けるかわからんし、他校の選手に絶対かつあげされるのはまちがいない!
試合終わったあとに校舎の裏に連れて行かれるし
「オラが履いてやるずら!スパイクも喜ぶだぁ!」

とにかくはじめて15000円のスパイクを履いたとき、今まで履いていたスパイクははっきしいってズック靴だった。
そのぐらいの違いがあったとおもう。
鳥肌が立ったのも覚えているし!

話はちょっと横道にそれるが、この大塚の白飯食い放題、3畳の下宿屋のお話もちょっと思い出したので後日、ご紹介もしよう。
笑える!!
by gsfc_aoshima | 2010-02-10 07:28 | 日本のサッカー | Trackback | Comments(1)
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Commented by yusuhara at 2010-02-12 09:49
凄いですね 革の靴底ですし
国産シューズもその値段って結構高かったのではないでしょうか

その中でも15000円のアディダスは恐ろしい代物ですね

私は西ドイツのルンメニゲ兄にあこがれて買ったのが最初のスパイクでした。


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